法隆寺 金堂 釈迦 三 尊像。 法隆寺金堂釈迦三尊像

頭部の両脇に冠の垂飾を垂らす。

天平19年(747年)作成の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(以下、『法隆寺縁起』または『資財帳』と略称)の仏像を列挙した部分では、冒頭に薬師像と釈迦像の記載があり、両像が遅くとも8世紀(奈良時代)には金堂内に安置されていたことがわかる。

36 - 37 出典・参考文献 [ ] 一般史• 釈迦は、大きな台座の上に結跏趺坐し、右手は施無畏の印、左手は与願の印を結んでいる 14,41)• 左手は、立像の場合、腕を体側に下げ、掌を正面に向ける
」 と述べている 三尊全体の背後に大型の蓮弁形光背(挙身光)があり、これとは別に両脇侍はそれぞれ宝珠形の光背(頭光)を負う
�縝憒嚗�餈衣�撠潔�嚗�. 胸前に見える僧祇支の縁、その下の腹帯、裳の折返し部などにを表し、腹帯と裳に挟まれた部分は菱形に区画した中に山岳樹木文を表す 『日本書紀』成立(720年)以前に聖徳太子関係の正しい史料が存在すれば、その仮説は崩壊するが、その最も古く遡る可能性のある史料が、(607年)と本光背銘(623年)である
翌日法皇、登遐す 大山誠一は本銘文の成立時期について、上限を、天皇号によれば持統朝(在位・690年 - 697年)、仏師の語によれば天平6年(734年)とし、下限は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747年成立)に釈迦三尊像の記録があることにより、天平19年(747年)としている
そして、推古天皇31年(623年)3月に、発願のごとく謹んで釈迦像と、また荘厳の具(と)を造りおえた 「弗悆」を次の「干食」につなげて、「食に弗悆(こころよ)からず
森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』(、新版2007年(初版2006))• 慧慈法師聞之、奉為王命講経発願日、逢上宮聖王必欲所化 この碑文には「我が法王大王」と名前が書か れている
「鬼」については、「一日」の意とする説(大矢透)、「晦日」の異名とする説(久米邦武)、二十八宿のうちの鬼宿に当たるとする説(福田良輔)などがある Copyright c Horyuji All rights reserved. 様式の源流 [ ] 本三尊像と共通の様式をもつ仏像を「止利式」仏像と称する
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この像はに造像させた。 名児耶明「古墳・飛鳥」(名児耶明監修 『決定版 日本書道史』、芸術新聞社、初版2009年)• 216 - 218 参考文献 [ ]• 日本では一般に「法衣」(ころも)と、その上に着る「」を区別するが、本来インドでは僧の着衣は袈裟(カシャーヤ)であった。 斎藤理恵子「法隆寺金堂釈迦三尊像の制作年代 笠井・大橋論争」(編著『論争 奈良美術』、平凡社、1994年) 辞典• 三経を苞み貫きて先聖の宏猷に纂ぎ、三寶を恭み敬ひて、黎 元 おほみたから の厄を救ふ。 翌日法皇登遐。 この元号を定めた王が「上宮法皇」である。 また、聖徳太子が用明天皇の命によって作ったとあるから、もしかしたらこれが、法隆寺のもともとの本尊ではなかったかとの推測もたてられている。 上宮豊聡耳皇子と曰す。

」 と述べている。

注解 [ ]• 像の正面で交差したり、両腕から体の外側に垂下するなど、像によってさまざまなデザインがある。

釈迦三尊像については、法隆寺建立以前にの地に建てられていた聖徳太子の斑鳩宮にもと安置されていたとする説もある。

なお、「止利」については特定個人を指す固有名詞ではなく、一族の「頭領」「長」を指す言葉ではないかとの説もある。

ただし、穴穂部間人皇女を「鬼前太后」と呼ぶ例は他になく、この部分を「十二月鬼、前太后崩」と区切って読み、「鬼」を日付の意に解釈する説もある。